渡辺市長インタビュー企画『朱鷺と暮らす郷づくりに込めた願い』

~知られざる佐渡の人とトキと農の物語~
佐渡市長・渡辺竜五さん
(市長インタビュー企画・前編)

 トキが佐渡の空に戻ってきてから16年が経過しました。野生下のトキは500羽を越えるまでになり、島の田んぼでトキと出会うことが多くなりました。
 トキの増殖事業とともに、車の両輪のように欠かせないもう1つの課題が、「トキと共生できる地域農業」の振興です。
 その中核としてあった佐渡米ブランド「朱鷺と暮らす郷づくり認証米」(通称、トキ認証米)も、トキの定着とともに、着実なステップを歩んできました。

 今回はトキ認証米が始まる時期に佐渡市役所に勤務し、制度設計や事業展開で中心的な役割を果たされ、現在は佐渡市の市長を務められている渡辺竜五さんにお話をうかがいました。

 トキ認証米を始めるまでの経緯や、始めたことでどんなことがかわったのか、そして、地域の農業との関係など、これまであまり知られていなかった情報も含めて、じっくりとお話をしていただきました。

 続く中編では、農業が持つ農産物の生産以外の大きな役割、後編では、市長を務めるかたわら、兼業農家として渡辺家で続けてきた稲作とそれにかける想い、1人の農家として感じる農業の価値についてなどをお伝えします。知られざる渡辺市長の横顔と農の深い世界を垣間見ることができる、盛りだくさんの企画です。どうぞお楽しみに。

 前・中・後編の記事を読んで感想を寄せていただいた方の中から抽選で「朱鷺と暮らす郷づくりコシヒカリ(佐渡米)」が当たるキャンペーンを実施しています(詳細は後編末尾を参照ください)。たくさんの応募をお待ちしております。

 日本のトキは佐渡で最期を迎えました。当時は中国から贈られたトキを繁殖させて、佐渡の里山に復帰させるための活動が進められていました。

 当時の市長、高野宏一郎さんの指揮の下、環境をテーマにした島づくりが実践されていました。その中でトキの野生復帰事業を農業部門から振興するよう拝命されていました。

 トキ認証米の取り組みが進んだきっかけの中には、さまざまな偶然の重なりがありました。
 一番大きかったのは、米産地を根幹からゆるがす大災害があったことでした。
 2004年の夏、大型の台風が佐渡島に上陸し、塩分を含んだ強風が長時間に渡って全域で吹きました。ちょうど稲の穂が出てお米が実る時期だったので、壊滅的な被害が出て、大不作の年となりました。そして、佐渡のお米を販売先に出荷できなくなりました。

潮風害で稲穂が白く枯れ上がった田んぼが広範囲に広がっていた(写真提供:JA佐渡)

 ただでさえ競争が熾烈なお米の市場です。一度お米が売り場から消えると、なかなかそれを取り戻すのが困難です。翌年は普通にお米が穫れた年だったのですが、販売は戻らず、佐渡米が大量に売れ残るという深刻な事態に陥りました。

 ちょうどその時、トキの野生復帰の動きがあったのです。お米の販売もそれに連携させて活動を展開すれば、事態を打開できるのではないかと考え、動き始めました。あの時は佐渡米の関係者の危機感は相当大きなものでした。そして、見事にピンチをチャンスに変えていったのです。

 市役所の職員としてトキの野生復帰を検討する関係者の会議に出席するようになりました。その時、参加者の間では、トキのことしか話題になっていないことが気になりました。トキが絶滅した原因を何も言っていないし、一度絶滅した場所にそのまま放しても意味がないのではないかと思いました。
 トキが地域にうまく定着するには、エサとなる生きものを育む必要がありました。
 ちょうどその頃、COP10(生物多様性条約第10回締約国会議・愛知県・2010年)の開催を目前に控えて、世間では「生物多様性」がキーワードとして登場することが増えてきていたという背景もありました。

 また、当時は市町村の合併が進められた時期でもありました。トキの保護活動は佐渡全体のテーマではありましたが、残念ながら、この時期は一部の地域の活動という意識が島内でも強く、同じ佐渡といってもその他の地域では、あまり関係がないとか、興味がないという感覚がありました。
 「トキを守る」というと、トキが行く所しか関係がない、ならば、活動は一部の地域でやればいいという風になってしまう恐れがありました。
 実際、トキは鳥なので、どこにでも飛んでいきます。だから、島全体で取り組んではじめてうまくいく取組だと思っていました。そのためには、生物多様性の保全を目標に掲げる必要がありました。最初は、農家を巻き込むための手段だったのです。

 佐渡全体で環境への負荷を減らすことで、島全体のイメージアップを図ろうというねらいがありました。そこで島内全域の特別栽培(減農薬減化学肥料栽培)の普及をめざしました。限られた場所と農家でしかできないような無農薬の栽培には、当時は全くこだわりを持っていませんでした。

 生きものが増えると、当然のことながら、トキもその生態系に入ってきます。だから、島の全ての農家が役割を担う形になるわけです。トキはあくまでもシンボルで、トキを含めた水田の生態系を守ることをめざしたのです。「トキを守る米」でなくて、「生きものを育む農法」、そして、「朱鷺と暮らす郷づくり」という呼び方にしたのは、そういう願いが込められていたのです。
 特定の生きものではなく、生物多様性を核にしたブランド戦略は当時はまだ珍しかったと思います。

 昔より田んぼの生きものが減ったという話はよく聞きます。その要因として、よく農薬があげられますが、さらに大きいのは、乾田化が進められて、地域から水辺の環境が減ってしまったからではないかと思っていました。

 昔は、私の家の近くでもサワガニがたくさんいました。水路が石垣でできていて、隙間にカニがたくさんいて、雨が降ると道路にうじゃうじゃと出てきました。今の田んぼはさまざまな乾田化の工事が行なわれ、水路はコンクリートの三面張りになっています。

 確かに農作業はしやすくなりましたが、一方で、かつてたくさんいたサワガニやカエル、カメなどがあまり見なくなってしまいました。生きものを増やすためには、もう一度水辺の環境を取り戻す必要があると考えました。

 偶然のことでしたが、市役所職員として現場を回っている際に、山間の棚田で素掘りの溝をみかけました。山から流れ込んでくる冷たい雪解け水を田んぼに直接入れると稲の生育が悪くなるので、水路をわざわざ迂回させて水を温めてから田んぼに入れるという農家の知恵が昔からあったのです。その水路を見ると、ドジョウがたくさんいました。これなら、生きものを育む技術として全島に拡げられるのではないかと考えついたのです。

 今では「江(え)の設置」と呼ばれています。江は田んぼ1枚1枚でつくることができ、島の農家が誰でも実践できて、なおかつ、それを政策の中で「認証」しやすいという利点がありました。「江」は、今では農水省も使う語になりましたし、全国で実践される取組にもなっています。偶然のことではありましたが、「江の設置」は、もしかしたら、私がこの棚田に行かなければ、生まれなかったかもしれません。

 今だから言えることですが、正直に申し上げて、かつては私自身、農業はビジネスだと考えているところがありました。佐渡米をどう売り込むか、トキの背中に米を乗せてどう飛ばせるか?そういったことばかりを考えていたのです。環境保全といっても、当時、本音にはなんとか佐渡の米を売らねばならないという考えがありました。

 ところが、トキの放鳥が始まり、生物多様性の農業をやっていって、しばらく経つと気づいたのです。どうもこれは違う、我々の考えは間違えていたのではないかという感じがしてきたのです。

 田んぼの役割は、白い粒のお米を作ることだとずっと思っていました。そこでは、お米の価値はおいしいか、まずいかといった評価しかありません。けれど、実際に活動をしていくと、どうもこれは違う、田んぼは米だけでなく、たくさんの生きものを産み出しているという実感を持てるようになったのです。

 そして、さらに言えば、その田んぼを守れるのは、農家を支える人、すなわち、お米を食べてくれる消費者なのだという考えに至ったのです。

 田んぼにどういう生きものがいて、それをどう支えるかが大切なのであって、農薬を減らす農業の本来的な意義もそこにあるはずです。お米を食べる人が自分の体のことだけを考えるなら、安い海外のオーガニックの米を輸入して食べればいいということになってしまいます。

 トキ認証米の取組が現場で実際に動き出し、実践しながら考えていく中で、自分たち自身も発見・認識したことがたくさんありました。生きものの本当の意味での大切さに気づいていったのです。

 島全体で生物多様性の保全をめざす取組で、すべての農家に役割が持てるような仕組みにしたのは、結果的には本当に良かったと思います。農家の皆さんは、あまり口には出しませんが、自分の田んぼにトキがやってくると大いに喜んでくれました。そして、その活動は今も続いています。

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(聞き手・写真:服部謙次・JA佐渡)